森鷗外vs高木兼寛(コロナ感染症對策に就いて) 森鷗外vs高木兼寛(コロナ感染症對策に就いて)


「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」との言葉があります。

元はドイツの宰相Otto von Bismarckの言葉で、

Nur ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene Fehler zu vermeiden.

(愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ、最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む。)

ださうです。この言葉が何時、誰によって現在の形に變はったのかは判りませんが歴史とは規模の大きな他人の經驗と言へますからその意味する方向性は變はらないと言へるでせう。

さて、一年以上にも渡って人類を苦しめてゐるコロナウィルスですが、その對策を見るにつけ歴史に學ぶ事の意義を考へざるを得ません。

コロナウィルス感染症に對して最優先で爲されるべき事は人命を救ふ事でせうか?それともワクチンを開發する事でせうか?この樣な二者擇一的視點からこの問題を論じた見解を寡聞にして知りません。日本政府の對策に至っては人命よりも何よりも經濟を優先させてる感すらあります。

又、世間ではワクチン、ワクチンとまるで宗教の樣相すら呈してますが、二度もワクチン接種をしてをきながらブレイクスルー感染などと言ふ現象が發生するに至ってはもはや笑ひ草としか言へません。そのワクチン、本當にワクチンとしての性能を有してるんですか?

私は豫防法(ワクチン)より治療法の開發を優先させるべきとの立場にコロナ感染症の當初から立ってます(陰濕な通報魔によりアカウントを抹殺された某共産圏SNSでは茶化したネタとして何度か述べました)。その理由は

一、ワクチン(豫防法)はその接種が間に合はず感染・發症して了った人に對しては役に立たない。

二、對して治療法は感染・發症して了った後に效果のあるものであり、それが確立されて了へば感染・發症を恐れる必要が無くなる。

と考へるからです。例へば壊血病に罹患した場合、無人島で遭難してゐるならともかく普通の文明社會で生活してゐるなら何を恐れる必要がありますか?壊血病はアスコルビン酸の缺乏により發症する病氣ですからアスコルビン酸を攝取すれば劇的に恢復します。因みにアスコルビン酸は一般にはビタミンCの名で知られてゐます。治療法さへ確立してれば發症から時間との勝負(例へば心筋梗塞の6時間の樣な)と言った事情でも無い限り恐れる必要は無いわけです。

人命を最優先とした場合、豫防法と治療法、どちらの開發が優先されるべきでせうか?缺乏症とウィルス感染症では治療の理論は異なりますが、人命を最優先させるなら何をすべきかの選擇は同じではないでせうか?にも拘わらずコロナウィルス感染症が廣がり始めて以来、何故世間は治療法の開發を忘れたかの如く宗教の樣にワクチンに狂奔したのでせうか?

歴史から學ぶ事の意義を知る爲に實際に日本で起きた事例を渡部昇一著、『かくて昭和史は甦る』から以下に引用します。


日本軍を脅かした脚気
 日本陸軍で脚気はまさに猖獗を極めたわけだが、これに対して、同じ日露戦争でも海軍の脚気患者はほとんどゼロに近かった。軽症者はいくらかあったが、重症者は一人もいなかったのである。これほど歴然とした差が出たのは、ひとえに陸軍兵士の健康を預かる軍医らの責任であることは言うまでもない。
 なぜ、このような事態が発生したのか。それについて、ここで少し述べてみようと思う。脚気がビタミンB1の欠乏によって起こる病気であることは、現代では誰でも知っている事実であろう。ことに白米ばかりを食べていると、脚気になりやすい。
 しかし、ビタミンの存在が知られる以前、脚気は日本や東南アジアの風土病と思われていた。西洋では脚気そのものが存在しないのである。これはおそらく、西洋人が精白しない小麦を使ったパンや肉を食べるからであろう。ビタミンB1は肉や小麦の腫芽にも含まれている。
 しかも、脚気は都市に多かったから、流行病と思われていた。かつては‶江戸煩い″とか‶大坂腫れ″とも言われていたようである。もちろん、都会の住民のほうが白米を多く消費するから、脚気が起こりやすいだけの話なのだが、当時の人たちが都市の伝染病か風土病の一種と思ったのも無理はない。
 さて、明治になって近代軍隊が作られたとき、この脚気が大問題になった。ことに海軍においては深刻で、長期航海において船内に脚気患者が続出すれば、艦そのものが行動不能になる虞れがある。  実際、明治十六年にニュージーランドを目指して出航した軍艦・龍驤では、二七二日の航海中、一六九人の脚気患者を出し、二三人が死亡するということがあった。このときの乗組員は総勢三七八名であったから、じつに半数近くが脚気に冒されたのである。
 このような状態を憂えて、何とか脚気の根絶をしなければならないと考えたのが、海軍軍医であった高木兼寛であった。彼はイギリスに留学し、ロンドンの医学校を抜群の成績で卒業したという実力の持ち主であった。
 徹底的な調査の結果、高木は脚気が食事と関係していることを発見する。同じ艦に乗り組んでいても、脚気に罹るのは下級の兵卒ばかりで、毎日洋食を食べている上級士官で脚気に冒される人はいないことに気が付いたのである。
 吉村昭氏の『白い航跡』(講談社刊)は、この高木兼寛に関する優れた伝記小説である。この作品によって当時の状況を紹介してみよう。明治初年のころは、下級兵卒の食事は白米の飯だけが官給で、副食に関しては食費が出て、それぞれの兵が好みのものを食べるシステムになっていたという。のちに、多少制度が改められたようだが、副食が自由裁量という点は変わらない。
 当時の水兵は貧しい家の出身者が多い。したがって、白米は軍隊に入って、はじめて食べたという人がほとんどである。そのような状態であるから、配給の飯は食べても、副食費は貯蓄に回すのが普通で、おかずと言えば漬け物程度のものしか食べていない。
 高木は「なぜ脚気が起きるのか」は分からなかったが、それが食事に関係していることだけは間違いないと考えた。すでに書いたように、脚気は日本の風土病とされていたが、日本に在住している外国人でこの病気に罹る人はいない。しかも、洋食を食べている上級士官も発病しないのだから、情況証拠は揃ったようなものである。


臨床重視のイギリス医学
 こうした高木のアプローチは、いかにもイギリス的である。イギリスの医学の特長は、臨床を何よりも重視する点にある。これはイギリス的経験主義の影響があるのかもしれない。
 たとえば、種痘を考え出したジェンナーもイギリス人の医師であった。
 おそらくジェンナーは、天然痘がなぜ発生するかには、あまり興味がなかったであろう。彼にとって重要だったのは、「どうすれば、天然痘を防げるか」ということのほうであった。ジェンナーは「牛痘に感染した経験のある農婦は、天然痘に感染しない」という話を聞いて、種痘を考案し、見事に成功するわけだが、このようなアプローチができたのは、彼がイギリスの医者であったことが大きいと思われる。
 イギリスで学んだ高木も、ジュンナーと同じ発想であった。脚気発病のプロセスを解明することよりも、目の前にいる脚気患者をどのようにすれば減らせるのかというほうが、ずっと大事なのだ。だから、脚気に洋食が効果があることを立証するのでも、彼は実践的な方法を用いた。
 すなわち、かつて多数の患者を発生させた軍艦・龍驤とまったく同じ航路で、軍艦・筑波を派遣する。もちろん、この筑波においては、食事は副食も含めてすべて給食とし、しかも良質のものを出すということにした。軍艦一隻を使った比較対照試験というのは、日本の医学史上に類を見ない試みであろう。このような大規模実験を海軍首脳が了承したのは、脚気の害がそれほど深刻であったからに外ならない。
 この実験は、見事な成功となった。筑波の乗務員で脚気を発病した者は、わずか一五名しかいなかった。しかも、この患者たちの多くが、与えられた給食をちゃんと食べていなかったことも分かった。


「高木ごときに何が分かる」
 この高木の実験で、日本海軍は全軍を挙げて食事の改良に乗り出す。予算や兵士の反発など問題は数々あったが、米食中心の食事を止めることにして、米・麦併用ということになった。この結果、海軍での脚気発生率は激減し、日清・日露戦争でも脚気の患者は皆無に近かった。
 ところが、これに対して陸軍首脳は、海軍の食事改良運動にまったく関心を示さなかったばかりか、それに反対する側に回った。 「兵士は白米を食べることを楽しみにしているのだから、麦飯など食わせたら士気が落ちる」という理由もあったようだが、反対派の急先鋒は何といっても、陸軍軍医局の医者たちであった。彼らは、徹底して高木の食事改善を否定した。
 陸軍軍医局の医者の多くは東大医学部出身であったが、この東大医学部は、当時「ドイツ医学こそが世界最高」と信じて疑わなかった。エリートの彼らにしてみれば、「高木ごときに何が分かる」という気持ちがあったのだ。
 たしかに、当時のドイツは世界の医学をリードしていた。ことに優れていたのは細菌学の分野である。ベルリン大学のコッホを頂点とするドイツ細菌学は、結核菌、コレラ菌、ジフテリア菌などを次々に発見して、医学に革命を起こしていた。
 細菌学を見ても分かるように、ドイツ医学の特長は徹底した病理中心主義にある。つまり、病気の原因を突き止め、つぎにその対策を考えるというアプローチである。したがって、ドイツ医学は、臨床よりも基礎研究を重視する。方法論が、帰納的というよりむしろ、演樺的な感じがする。
 このようなドイツ医学を信奉する陸軍や東大医学部の医者たちにしてみれば、原因の追究を二の次にした高木の脚気退治策はまったくのナンセンスということになる。
 しかも前述したとおり、当時、脚気も伝染病の一種と考えられていたから、「細菌で起きる病気を食事で防げるわけがない」と、彼らは主張した。つまり、「脚気菌がまだ見つからないのに、根本的な治療法などあるわけがない」という発想だったのである。


文豪・森鷗外の大いなる罪
 こうした否定派の中で、‶高木潰し″の急先鋒となったのが、あの森林太郎、つまり森鷗外であったということを、特に強調しておきたい。彼は東大医学部を卒業後、軍医になり、以後一貫してエリート・コースを歩んだ人物である。
 森はドイツ留学中にコッホの研究所で学んだ人であるから、「脚気病菌説」を信じて疑わなかった。彼は、高木の業績を否定するために、学会で論文を発表し、「栄養学的に見て、日本食も洋食もまったく同じである。洋食をすれば脚気が防げるなどということは、迷信・俗説にすぎない」と断定した。
 それだけならまだしも、森鷗外ら軍医たちは、陸軍における食事改良の試みを徹底して妨害した。
 陸軍にしても脚気の被害は甚大で、その予防は急務であったから、当然のことながら、海軍の食事改良運動に興味を持った。実際、現場の指揮官や軍医の中には、独自に麦飯を導入しようとした人もいた。ところが頑迷固陋にも、こうした試みを軍医局は妨害し、あくまで白米主義を押し通したのである。
 その結果、日清戦争では四〇〇〇人近くの兵士が脚気で死んだ。  ところが、これを見ても彼らは自説を曲げることはなく、そのまま日露戦争に突入することになるのである。日露戦争で脚気患者が大量発生し、その結果陸軍の作戦に支障をきたしたことはすでに述べたとおりである。
 そればかりか、前述の吉村昭氏の著書によれば、日露戦争後も森鷗外は米食至上主義をまったく反省せず、陸軍兵士に白米を与えつづけたという。
 こうした森鷗外ら陸軍軍医局のやった行為は、一種の犯罪と言ってもいいであろう。
 単に学問上の論争であるなら、森が高木の食事改良運動を批判しても、それは別に構わない。だが、現場で米と麦を併用するのまで妨害するというのは、単に面子にこだわっているだけのことである。すなわち、東大医学部とかドイツ留学という金看板を守りたいという縄張り根性にすぎない。
 乃木将軍の幕僚たちは、「自分たちの本分は作戦立案である」として、二〇三高地で死んでいく将兵たちの姿をいっさい見なかった。それと同様に、鷗外たち陸軍の軍医は、脚気で死んでいく将兵たちを見殺しにして、恥じることはなかった。
 文学者・森鷗外の業績については、ここではあえて触れない。だが、陸軍軍医としての森林太郎が、国賊的な‶エリート医学者″であったということは、指摘しておく必要があるだろう。(渡部昇一、『かくて昭和史は甦る』)


ある種の榮養素が缺乏する事で病氣が起こる事、原理は不明だが實際に效果のある治療法でその病氣が治癒する事、そして日本では高木兼寛がその手法で脚氣を根絶した事はアメリカの科學者作家Isaac Asimovの著作にも記されてます。


DEFICIENCY DISEASES

The ancient world was well acquainted with scurvy, a disease in which the capillaries become increasingly fragile, gums bleed and teeth loosen, wounds heal with difficulty if at all, and the patient grows weak and eventually dies. It was particularly prevalent in besieged cities and on long ocean voyages. (It first made its appearance on shipboard during Vasco da Gama's voyage around Africa to India in 1497; and Magellan's crew, during the first circumnavigation of the world a generation later, suffered more from scurvy than from general undernourishment.) Ships on long voyages, lacking refrigeration, had to carry nonspoilable food, which meant hardtack and salt pork. Nevertheless, physicians for many centuries failed to connect scurvy with diet.

In 1536, while the French explorer Jacques Cartier was wintering in Canada, 110 of his men were stricken with scurvy. The native Indians knew and suggested a remedy drinking water in which pine needles had been soaked. Cartier's men in desperation followed this seemingly childish suggestion. It cured them of their scurvy.

Two centuries later, in 1747, the Scottish physician James Lind took note of several incidents of this kind and experimented with fresh fruits and vegetables as a cure. Trying his treatments on scurvy-ridden sailors, he found that oranges and lemons brought about improvement most quickly. Captain Cook, on a voyage of exploration across the Pacific from 1772 to 1775, kept his crew scurvy-free by enforcing the regular eating of sauerkraut. Nevertheless, it was not until 1795 that the brass hats of the British navy were sufficiently impressed by Lind's experiments (and by the fact that a scurvy-ridden flotilla could lose a naval engagement with scarcely a fight) to order daily rations of lime juice for British sailors. (They have been called limeys ever since, and the Thames area in London where the crates of limes were stored is still called Limehouse.) Thanks to the lime juice, scurvy disappeared from the British navy.

A century later, in 1884, Admiral Kanehiro Takaki of the Japanese navy similarly introduced a broader diet into the rice monotony of his ships. The scourge of a disease known as beri-beri came to an end in the Japanese navy as a result.

In spite of occasional dietary victories of this kind (which no one could explain), nineteenth-century biologists refused to believe that a disease could be cured by diet, particularly after Pasteur's germ theory of disease came into its own. In 1896, however, a Dutch physician named Christiaan Eijkman convinced them almost against his own will.(Asimov, Asimov's New Guide to Science)


本來は別の病氣の藥であるのにコロナウィルス感染症に効くとされるものが存在します。原理の詳細は未だ解明されてないけど效果があるならそれを使ってみやう、理論は後からでもいい、と考へる人達は私には高木兼寛に見えます。對してワクチン、ワクチンと拘泥する專門家達は森鷗外に見えます。

最優先されるべきは現實に危機に瀕してゐる人命か?それとも理論に裏付けられた(その割には未完成品に見えますが)ワクチンの開發か?

歴史を學ぶ事で見えて来るものは何でせうか?


(03/10/2681)

comments to this article
通りすがりの使徒
2022年01月27日 23:30
表の顔は文豪だけど、裏の顔は(お察し下さい

昔もあったダブルスタンダード?







ヲッと何か犬が来たようだ。
|)彡サッ
reply to the comment
2022年01月28日 19:20
渡部氏の著作に書かれてある通り実効性のある治療法を否定するだけでなくその導入を妨害するとか陰湿過ぎます。そこまでして面子を守りたいのかと。

その思考回路がワクチンに拘る今の専門家にも受け継がれてる気がしますニャ〜(棒読み)。
猫好き家族
2022年01月27日 23:57
こんばんは。興味深く読ませて頂きました。勉強になります。
ワクチンは表に見えない利権が絡んでいるのでしょうね。困窮している人もいるかと思いますが、コロナ禍をほくそ笑んでいる人々もいることでしょう。
reply to the comment
2022年01月28日 19:21
給付金・補助金で潤う人達なんかはコロニャさまさまでしょうね(棒読み)。

ワクチンはその有効性が立証されてればいいですが今のコロニャワクチンは見切り発車レベルでしょう。しかもどんどん変異するならワクチンは効かなくなるのにワクチン、ワクチンとまるで宗教。

実効性があるとされる治療法があるなら何故そちらを真剣に研究・開発しないのか?まるでコロニャに乗じて増え過ぎた地球の人口を減らそうと企む陰謀論を支持したくなります。
鼠色の猫
2022年01月28日 03:44
日本政府は

経済を優先しつつ

なるべく

動かない姿勢(^◇^;)
reply to the comment
2022年01月28日 19:22
支那・朝鮮あたりから「歴史」をタテに文句を言われると教育会が反応してクレーマーの意向に沿う教育に切り替えるニポーン。

この明治時代の先例も「歴史」ニャのに何故そこから学ばないんですかね〜。