デモクラシー國家に於ける裁判とは? デモクラシー國家に於ける裁判とは?


・前書き
陰濕な通報魔の嫌がらせ攻撃によりアカウントを抹殺された某共産圏SNSに於いて最後にアップした記事です。

内容は池袋暴走事故裁判の判決に就いてネット上で樣々な見解が見られる事に對し、デモクラシー國家に於ける裁判とは如何なるものかを小室直樹氏の著作『田中角栄の遺言』を引用し自分の考え方がデモクラシー國家に於ける刑事裁判に合致するのか否かを讀む人に自問して貰う爲にアップしたものです。

この記事に就いてMasaGoto氏から内容を讀む前に抹殺されたので讀む事ができなかった。できれば内容を知りたいとの連絡を受けたので加筆・修正した上で自サイトに再アップします。加筆の理由は以下の通り。

1、「密告・抹殺が横行する共産圏SNSではメシやペットの話をしてればいい」と常々宣言してゐたので(實際に抹殺されましたし)真面目な内容であっても半ばジョーク的なネタとしてしかアップしてなかった事。

2、SNSの仕樣により小室氏の解説を引用した上で私見まで述べると文字數制限を超えると判斷したので以下の解説を讀んで自分の考へ方がデモクラシー國家に於ける刑事裁判のあり方と合致するか否かを考へて下さいとだけ述べ本文の殆どを引用とした事。

通報魔は2を著作權侵害云々と密告し私のアカウントを抹殺させたのかも知れません。その他重箱の隅をつつく樣なありとあらゆる事で言ひ掛かりを付けて通報し抹殺させた可能性もあります。その陰濕さの程は通報魔本人のブログ等のあちこちに現れてますので(棒讀み)。

自サイトでは文字數制限はありませんので小室氏の解説を讀むに當り重要と思はれる點に就いて私見を加へます。これが加筆部分になります。

修正は内容ではなくこの前書きを追加する事で構成が變更される事、自分が述べた事を一言一句に至るまで正確に記憶してない事、及び自サイトでは舊字と歴史的假名使ひを基準としてゐる爲に文章に違ひが生じる事が理由です。


以下、抹殺された記事本文に加筆・修正したもの

ネット上では「上級國民」による事故の裁判に就いて判決が甘いとか飯塚被告人は恥を知れと言った見解が見られます。

當該事件と以下の引用の事例では事情が異なる所もありますが、小室氏の解説するデモクラシー裁判の論理と「上級國民」事件に對する自分の見解とを比較してみると面白い發見があるかも知れません。

以下、小室直樹著、『田中角栄の遺言』の引用です。

裁判官は被告の味方であるべし
 ところが、このデモクラシーの公理をほとんどの日本人は知らない。マスコミも知らない。検事も知らない。弁護士も知らない。裁判官も知らない。誰も知らない。大多数の日本人は、デモクラシーの初歩の入門の手解きを知らない。そこまで言いきってしまっても、中らずと雖も遠からず。いや、ピタリと中っているのではないか。
 デモクラシー裁判であるかないか。そのための判定条件を一言で言えと言われたら何と答えますか。正解は、刑事裁判において、裁判官が被告の味方であること。これです。もちろん、裁判官は公正でなければならない。しかし、中立であってはならないのである。行政権力である原告(検事)から被告(の権利)を守る。これが、デモクラシー諸国における裁判官の役割である。
 クイズを追加。裁判とは誰の裁判ですか。裁かれる人は誰ですか?
「被告」と答えた人は落第。この人は、デモクラシーを少しも理解していない。
「犯罪者」なんて答えたら、これはもう、どうしようもありません。「落第」どころではすみません。早速、退学を命ずるほかありません。裁判が終わるまでは、どこにも「犯罪者」なんかいません。どんなに重い罪の容疑をかけられても、判決が下りて確定するまでは、無実の人と見做されなければならない。
 裁判で裁かれる人とは、検事である。デモクラシー裁判とは、検事への裁判である。なんて断言したら、あっと驚く人もいるかもしれない。
 日本人的センスからすると、今でも、検事はお上。お奉行さま。そのお奉行さまが、縲絏(縄目)のはずかしめをうけて、お白州に引き据えられるというのであるから。今の日本でも、想像を絶することだと感ずる人が多数生息していることであろう。とくに、遠山の金さんや大岡越前守のファンにとっては。まして、田中角栄に懲役五年が求刑されたとき、提灯行列までやらかした社会党の議員には、「裁判とは検事の裁判である」ことが理解できる人は、一人もいないに違いあるまい。
「懲役五年が求刑されたから実刑判決は確実だ」と考えるその心理。その論理。まさに、刑事訴訟法改正(昭和二十四年一月一日)以前の心理と論理である。
 刑事訴訟法は改正されたけれども、人びとの心は変わらなかった。また、この刑事訴訟法を、人びとは少しも理解しなかった。国会議員も、検事も弁護士も裁判官も。マスコミにいたっては、端的にその無知を天下に晒したのであった。
 では、新刑事訴訟法の神髄「裁判は検事の裁判である」とはいかなることか。何故にそれが、デモクラシーを一言で言い表わすことになるのか。
 刑事裁判においては、ご存じのとおり、検事が証拠を持ち出して被告側と争う。この証拠であるが、すべて合法的に得られたものだけに限定されなければならない。これこそ、検事がまず通過しなければならない第一の関門である。
 このことを大多数の日本人に理解せしめることは、小学生に位相数学を理解させるよりもむずかしい。法律をまったく知らない人に特訓して、一年後に司法試験に合格させるよりもむずかしいかもしれない。だってそうでしょう。れっきとした検事、弁護士、裁判官(最高裁長官の経験者を含む)だって、たいがいの人は、ほとんど分かっちゃいないんだから。
 敷衍しておきたい。検事が裁判に持ち出す証拠は、ともかくも「証拠」でありさえすればよいというのではない。断じて、そうではない。たとえば、拷問によって得られた「証拠」は、証拠として裁判に持ち出すことは許されない。この点、江戸時代の「裁判」とは違うのである。まず、ここのところから理解してゆきたい。
 拷問を重ねた未、ついに耐えかねて吐いた。恐れ入りました。わたくしめがやりました。江戸時代なら、これで有罪。戦前の裁判だって、本質的にはこれに近いことが行なわれていた。特高などに睨まれたら百年目。逮捕され、拷問され、凌虐された。
「当時の裁判所は、そういう捜査によって作られた証拠を証拠として、有罪の判決を下すことを常としていたんですね」(「『角栄裁判』は〝司法の自殺″だ!」「諸君!」石島泰 一九八四年五月号)
 ここがポイント。ともかく証拠でありさえすれば、どんな方法としてとられた「証拠」でも証拠として通用した。しかしデモクラシー裁判では、この態度は絶対にとらない。と説明すれば、勘のよい人なら、すぐ、ピンとくるだろう。デモクラシー裁判においては、拷問における自白は認めないんだと。


「動かぬ証拠」でも、取り方が問題
 まさにそのとおり。それはそうだが、話はここに止まらない。次のような場合も考えておきたい。殺人の容疑者の場合。検事は、コイツがやったに違いないと確信を持っている。何しろヴェテラン検事だ。滅多なことで勘に狂いはない。しかし、どうしても動かぬ証拠が見付からない。ママヨッ、拷問をやっちまえ。どうせ大した悪党だ。うんと痛めつけてやったっていいだろう。
 拷問したら、ついに吐いた。わたくしめが殺しました。殺しに使ったピストルはあそこに埋めてあります――。早速、掘り出して調べてみると、何もかもピッタリ、シックリ。まさにこれ、動かぬ証拠。自白の他に、ちゃんと動かぬ物証がある。
 たしかに、「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、または刑罰を科せられない」(日本国憲法第三八条③)とあるが、この場合は違う。自白のほかに動かぬ物証があるではないか。
 この自白だが、「強制、拷問若しくは脅迫による自白または不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」(同三八条②)とある。それゆえに、この自白は証拠とすることができない。そう考えられる。
 拷問の責苦に耐えかねて、検事が命ずるとおりのことを、つい認めてしまう。これはよくあることである。だから、拷問による自白は証拠とすることはできない。ここまでは、すぐ分かることだろう。この「私が殺しました」という自白は、拷問によるゆえに証拠にはならない。
 が、動かぬ物証たるピストル、証拠とすることができますか。できませんか。ここがポイントです。デモクラシー裁判理解の急所です。あなたに、リーガル・マインド(近代的法意識)があるかどうかのテストです。
 法社会学者の川島武宜博士は、法律問題を考えるに際してのリーガル・マインドの重要さを強調していた。日本人は、優秀な人でも、リーガル・マインドを欠く人が多い。アメリカ人は、あまり優秀でない人でも、しっかりしたリーガル・マインドを備えている人が珍しくない。
 さて、あなたは? ちょっと、テストしてみてくださいますか。この容疑者は、有罪か無罪か。ただし、デモクラシー裁判において。
 たいがいの日本人が有罪である、と答えるでしょう。
 その理由は、たしかに、この場合の自白は拷問によるものであるから証拠とすることができない。しかし、自白の他に、動かせない物証があるではないか。この物証によって、当該容疑者が殺したことは明白。たしかに殺したことが明白な以上、この容疑者は有罪だと。
 でも、このように考えれば、この裁判はデモクラシー裁判ではない。その本質において、絶対君主の裁判である。絶対権力の恣意から、容疑者を守る盾がないではないか。城塞がないではないか。容疑者は狂暴な権力者の前に裸ではないか。


裁判において「真実」ほど恐ろしいものはない
 何がなんでも事実を発見しなければならない。真実を明らかにしなければならない。そういうイデオロギーを貫くと、事実(真実)を発見するためなら何をしてもよい、という論理が作動することになる。あたかも、政治的狂信者が、正義のためなら何をしてもよいと盲信するように。それゆえに、政治の世界においては、「正義」より恐ろしいものはない。「正義」は、容易に人を殺す。
 あたかもそのように、裁判において「真実」(事実)より恐ろしいものはない。何がなんでも「真実」(事実)を発見せずんば止まじ。このイデオロギー、この教義が人を殺す。冤罪を生む。松川事件、砂川事件、吉田石松岩窟王事件のように。
 何がなんでも「真実(事実)を発見する」という教義から被告(容疑者)を守る盾。それが、「裁判とは手続きなり」という教義である。
 その要諦は、刑事裁判において、すべて完全に合法的な手続きによって得られた証拠以外の「証拠」は、これを法廷に持ち出すことができない。証拠とすることができない。つまり、非合法な方法で得られた「証拠」は、証拠ではない。この「適法な過程」(due process of law)に致命的重要さを置くというイデオロギーこそ、人民(国民)を行政権力から守る盾である。デモクラシー諸国では、刑事裁判を、このように考える。
 このように論じてくれば、さきのクイズの正解はお分かりでしょうな。正解は無罪である。拷問という違法な手続きによるゆえに、それによって得られたピストルという「物証」は証拠とすることができない。ゆえに、証拠がないのだから無罪。
 お分かりですか。腑に落ちましたか。でも、どうにも納得しきれないという人があるかもしれません。ある証拠をないとするなんて、何とも、はて面妖な。そう感ずる人もいるであろう。あるいは、「ある証拠をない」とするのは、人権を守るための方便か、嘘も方便。なんて具合に理解してしまう人もいるかもしれない。
 しかし、そういうことではない。デモクラシー諸国における裁判は、近代科学と同じ方法論的構成をとっているのである。これは、川島武宜博士の説であるが、著者も同意。近代科学は仮説である。模型(理念型 Ideal Typus)作りである。
 昔の科学とは違って、「ここに真理があって、それを発見する」のだとは考えない。真理であるかどうかは、科学が決める。特定された科学的手続きによって科学が認めたことが、科学的真理である。
「科学」の中に数学まで含めても同様。現代数学は、公理を立てる。無定義要素を前提し、定義を下す。定理を導いてゆく。仮説であって、「ここに数学的真理があって、それを発見する」のではない。すなわち、近代科学は、真理(事実)という実体があって、それを発見する(模写する)のだとは考えない。方法論的にいうと、「真理(事実)を発見する(模写する)」という考え方は、素朴模写説となる。カントの認識論以前の考え方なのである。
 科学的理論は、模型作製の作為による仮説である。デモクラシー諸国における裁判をも、川島武宜博士は、仮説であると考える。刑事裁判では、はじめからそこに、犯罪という事実(AがピストルでBを射殺したというような)が存在するとは考えない。事実であるかどうかは法律が決める。これを法的事実と呼ぶ。法が決めるところの特定の手続きによって決められたこと、それが法的事実である。これはあたかも、科学的事実とは、科学が決めるところの手続きによって決められるのと同じことである。
 証拠もまた法的事実であるから、証拠であるかどうかは法的手続きが決める。法的手続きが証拠でないと決めれば、それは証拠ではない。法的事実たる証拠に基づいて法的決定(判決)がなされる。これが、デモクラシー裁判の構造である。


日本人の思想と行動は江戸時代のまま
 それにしても、法的手続きに依らなければ、明白な事実でも証拠とはならないという考え方は、日本人にはどうにも馴染まないらしい。ここに、「法的手続きに依らなければ」とは、厳密に理解されなければならない。すべて合法であり、少しの不備があってもならないのである。
 日本人にこの考え方が馴染まない所以は、デモクラシー裁判ということの理念が理解しにくいということもあるが、それにもうひとつ。素朴模写説が、意識、無意識の底にわだかまっているのではないか。というよりも、多くの人びとにとって、あまりにも当然すぎることではないのか。素朴模写説が儒教的残滓と連動すると、たとえば、次のような意見となって現われる。
 昭和五十八年一月、田中角栄に懲役五年が求刑され、これで角栄の牙城崩れたりと、マスコミが欣喜雀躍したときのことである。朝日新聞にこういう投書が載った。


〈田中角栄さん恥の心知って〉
 二十二日のロッキード公判で、田中角栄さんは無実を訴え通した。田中さんは有能な政治家で、地元のために巨額の税金をまわし、打算私欲のソロバンの上に立つ人たちに選ばれて国民の審判、みそぎを受けたと言っているが、肝心の人の心が狂い、乱れ、濁っていては世はよくならない。
 人と禽獣の異なるところは、恥を知ること、敬うということを知ることである、と古人は教えている。六年有余にわたる審理の間、一片の反省もなく、黒を白と言い張り、ゴリ押しする姿は、免れて恥なしどころか、免れざる恥なし、で寒心に耐えない。
 田中さんに残された唯一の救いの道は、われ過てりと、素直に身の不徳を猛省し、「慎独」の実践に徹することだ。
 まれにみる優れた才能、手腕を、砂上の楼閣に等しいものに我執していては、汚名を千載に残すだろう。いまはもう五億円の授受うんぬんだけでなく、人間性、人格そのものが問われている。田中さん、恥を知ってください。
 (一九八二年十二月二十五日 朝日新聞 朝刊)

 この投書を読んで驚いた。デモクラシーの誤解、まさにここに至れるか、と。
 こう考える人がいる、それだけのことなら、べつに差し障りはない。しかし、このような投書が、ロッキード裁判の最中に掲載されたのだ。つまり、最大手ジャーナリズムの記者が、採用する価値があると思ったのである。このことから容易に推察できることは、ジャーナリストにも一般の人にも、投書した人と同じように考える人が、きわめて多いということだろう。
 この一人の真摯な老サラリーマンの投書は、大多数の日本人の角栄裁判観を代表していたことであろう。角栄裁判は、日本人における裁判観を、あますことなく露呈してくれた。その意味で、このうえなく貴重である。
 右の投書を分析することから始めたい。本書をここまで熱心にお読みくださった読者には、右の投書における問題点分析は、割合に容易であると思われる。

 問題点1 検事の求刑をもって、実刑確実だと論断したこと。  たしかに、旧刑事訴訟法下においては、検事が起訴した被告が無罪になることは滅多になかった。この事実から、いつのまにか、求刑と判決とはだいたい同じ(たいがい、後者は前者よりも少し軽いが)と思い込むことになってしまったらしい。しかし、この思い込みは、実は、たいへんなことである。すでに強調したように、この思い込みは、裁判官と検事とが一心同体、同一共同体に属していることを表わす。裁判官が、行政権力から人民(国民)の権利を守る盾として機能していない。
 まさしく、旧刑事訴訟法の精神そのものを表わしているのである。刑事訴訟法変われども人心変わらず。人びとの思想と行動とは、旧態依然たるものがある。江戸時代のままだ。この人心を反映してか、検事が起訴して無罪判決が下ることは、依然として少ない。

 問題点2 証拠が完全に合法的な手続きで出されたものであるのかどうか。
 このことに関心を有する者は、それ以上に少ない。一般人だけでなく、法曹人であっても、わずか数人の例外を除いて、この問題に関心を示す者がほとんどいないということは、一体全体、どういう了見なのだろう。
 完全に合法的な方法によって得られた「証拠」だけが、証拠として裁判に持ち出せる。それ以外の「証拠」は、実は証拠ではない。これは、いくら繰り返しても繰り返しすぎることのない最も重要な命題である。
 しかし、かくほどまでに重要な命題ではあっても、これを日本人に納得させることは、あるいは絶望的に困難かもしれない。右の投書氏が求めているのは、デモクラシー裁判ではなく、遠山の金さんの「お裁き」なのである。


⑵ デモクラシーの苦悩

デモクラシー裁判は結果より手続き
 デモクラシー裁判の要諦は何か。急所とは何か。適法な手続き(due process of law)、このことである。デモクラシー諸国において、正しい裁判であるかどうか。いや、「裁判」とは称するものの、実は裁判でも何でもないか。それは一にかかって、その手続きにある。
 大岡裁き、ソロモン王の裁き、ダニエルの裁き、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』におけるポーシャの裁き――。これらは、名裁判として有名である。が、これらは、適法な手続きということからみれば、最低の裁判である。いや、裁判でも何でもない。
 デモクラシー裁判の要は手続きにある。結果にあるのではない。  この点、政治的責任とは根本的に意味を異にするから注意を要する。マクス・ヴェーバーが喝破したように、政治責任は結果にある。結果にのみある。手続きであれ何であれ、結果に至る途中は、まったく問うところではない。これに対し、デモクラシー諸国における裁判の要は手続きにある。手続きだけにある。結果は、まったく問われない。結果において正義が実現されるかどうか。そんなこと、裁判の関知するところにあらず。
 もちろん、これは、理念型である。デモクラシー裁判の模型である。
 かの概念法学が法社会からの批判を浴びたように、右のデモクラシー裁判の理念型に対する批判もあろう。しかし、「裁判とは手続きである」ということが徹底的に理解されたうえの議論であるというのでなければ、これはどうしようもない。これから「デモクラシーの苦悩」について述べるが、まず左記のことをしっかり頭に入れておいていただきたい。


『復讐法廷』にみる証拠とはなにか
 アメリカで一九八二年に出版された『復讐法廷』(ヘンリー・デンカー著 中野圭二訳 文春文庫)という本がある。
 違法証拠の排除原則(違法に収集した「証拠」は、証拠として認めない原則)が主題となっている小説である。問題提起もさることながら、「デモクラシー諸国における裁判の本質は何か」を理解するための絶好の教材でもある。
 クリータス・ジョンソンという黒人の男が、アグネス・リオーダンという若い白人の女を、強姦して殺害した。彼は彼女から強奪もした。強盗、強姦、殺人事件である。証拠は完璧にそろっている。では、勿論、ジョンソンは有罪にきまっている。と思いきや、無罪であった。
 裁判におけるやりとりから、事件の経緯は明確に看取できる。
 警察官は「ほんの数ブロック先で若い女性が強姦され、強奪され、絞め殺された」との報告を受けていた。ほとんどイタリア人ばかりが住んでいる地区に、遅い時刻に黒人が一人で歩いていた。顔には引っ搔き傷があった。職務質問をすると、あいまいな返事。身体検査をした。拳銃は持っていなかった。が、アグネス・リオーダンの装身具、時計と金の鎖と十字架とを持っていた。
 ここからが話の急所。これだけで、強盗、強姦、殺人の証拠として充分だと誰しも思うだろう。この証拠を補完し、完璧な証拠とする以外の何ものでもない証拠も、また発見されたのであった。アグネス・リオーダンの体内から採取した精液が、クリータス・ジョンソンのズボンに付着していたものと一致し、同一人物のものであることが証明されたのである。
 そのうえ、神さまが駄目押しでもするかのように、証拠は、これでもかこれでもかと固まってゆく。ジョンソンの血液と一致する血液が、アグネス・リオーダンの爪の間についていたことが立証された。鑑識課の報告と血液学者の報告は、その点に関して完全にはっきりしていた。そのとおりと、裁判官も、すべてこれらのことを認める。認めざるを得ない。これ以上の証拠は考えられない。誰もが、そう思うかもしれない。しかし裁判所は、これほどまでに明白な「証拠」を、証拠として採用しなかったのであった。
 その理由は、警官がジョンソンを逮捕したことが違法であったからである。裁判所は、ジョンソンが、アグネス・リオーダンから強奪し、彼女を強姦し、殺害した事実は認める。しかし、これを証拠とはしないのである。その理由は、ジョンソンは法的に正当な理由なしに制止され、身体検査をされたからである。それゆえに、「当然ながら、その逮捕によって収集した証拠はすべて差し止めざるを得なかった」。すなわち、正当な理由なしに逮捕されたことによって収集した証拠は、証拠として使えないのである。


「レンゲル判事、先ほど質問が中断されたとき、わたしはあなたがジョンソン事件の物証をすべて無効にしたときの心の状態をお尋ねしていました」
「無効にしたのではない」レンゲルは例によってうるさいところを見せて訂正した。「〝差し止めた″が正しい言葉だ」
「正しい用語は何であれ、事実は、血液と精液検査、指紋、盗品の所持によって、強姦と強奪と殺害と結びつく男があなたの目の前にいた、そしてあなたはすべての証拠を差し止めて、その男を放免したということです」
「彼が法律に反したやり方で逮捕された以上、彼に関するいかなる証拠も認められない。あんたもよく知っているようにな」
「そこからわたしの次の質問が導き出されるのですが、クリータス・ジョンソンが黒人なのに白人ばかりの地区にいたから、警官が彼を制止したのではなくて、かりにジョンソンがマルベリー通りの角の街頭の柱に小便をしているところを見つけたからそうしたのだとしたら、それは彼を引き止めて、質問をし、身体検査をする充分な理由になったでしょうか」
 レンゲルはベンを睨みつけたまま、返事をしなかった。ベンはゆっくり、力をこめて、返答を迫った。「判事殿、それだったらジョンソンを引き止める充分な理由になったでしょうか」
 やっとレンゲルは認めた。「そのとおりだ」
「そしてジョンソンに関して見つかったすべての証拠は認められたでしょうか」
「そのとおり」レンゲルは同意せざるを得なかった。
「ジョンソンがそのとき尿意を催すことなく、彼がやった強姦、強奪、殺害からただ歩いて逃げていただけだったとは、ジョンソン氏も実に運の強い男だ」 (『復讐法廷』)


 ここが、この裁判の争点の中心である。論争は、ジョンソンが警官に制止された理由に移る。ジョンソンは、黒人なのに白人ばかりの地区にいたから制止され、質問され、答がしどろもどろだから怪しい奴だと身体検査された。
 裁判所は、警官のこのやり方は法律に反するとして、この方法で得られた証拠を証拠として採用しない。が、仮にもしジョンソンが角の街頭の柱に小便をしているところを警官が見つけたとすればどうか。ジョンソンを制止し、質問をし、答がしどろもどろだったので怪しい奴めと身体検査し、ということであったならばどうか。この場合には、件の証拠を証拠として採用することができるのである。そうすれば、ジョンソンは、有罪となるにきまっている。
 毫釐千里(一ミクロンのちがいが四〇〇〇キロメートルの差を生む)の用例として、これ以上の適例はあるまい。これが、デモクラシー裁判。
 証拠が認められなければ、起訴さえされずに大手をふって自由の身になれる。証拠が認められれば死刑。こういうことがあり得るのである。「事実」がまったく同じであっても、証拠を得るための方法(手続き)が、ほんの少しでも違えば、それが、合法非合法の分かれめとなって、生死を分かつ。まことに、「裁判とは手続きである」ことを理解するための恰好の例ではないか。


近代裁判は現実を単純化した模型
 このように論じてくると、必ず質問が出る。これほどまでして、「裁判は手続きである」ということに徹して、どういう意味があるのか、と。
 これほどまでにしないと、狂暴極まりなき政治権力から人民(国民)の権利を守り切ることができないからである。裁判所が、尖鋭なる行政権力から人民(国民)を守ることができないからである。『復讐法廷』の著者H・デンカーも言っているではないか。


 もはや単に一人の人間、一人の依頼人、一人の被告人ではなかった。彼は巨大な政府につき当たって挫折感と恐怖を抱いているすべての人間を表わしていた。市民が平和に安全に暮らすという最も基本的な権利を守るために作られたはずの政府なのに、政府が大きくなればなるほど、その権利を保証できなくなってきた。(同右)


「千人の罪人を逃すとも、一人の無辜を刑するなかれ」を実現するためには、どうしても「裁判とは手続きなり」「裁判とは方法である」という思想に徹しなければならない。
 裁判官は、検事が裁判に持ち込みたがっている証拠を見て、手続きにおいて一毫の欠陥でも見付けたならば、ただちにこれを裁判からシャット・アウトしなければならない。証拠と認めてはならないのである。これが、裁判官たる者の基本的態度でなければならない。
 そのうえで裁判官は、目の前にした証拠を鵜の目鷹の目で検討して、検事の主張が完全であるかどうかを調べる。容疑の証明において、ほんの少しでも不完全なところがないかどうか調べつくすのである。
 もし、ほんの少しでも不完全なところがあったら、検事の負け。被告の勝ち。無罪。
 この意味で、刑事裁判とは、検事の裁判である。被告の裁判ではない。この点、大岡越前守による裁判とも、遠山の金さんによる裁判とも、根本的に違う。必ず、白黒がつくのである。白黒だけがつくのである。判決には、引分け、よい勝負、勝負なし、こういう判決はあり得ない。勝ち負けのいずれか一方だけにかぎられる。まったくもって二分法的である。集合論的である。
 たとえば、検事側と被告(弁護人)側とが論争しつくした結果、双方の証拠が全部くずれたとしよう。このときどうなるか。
「公平にみて」引分け、よい勝負に見えるかもしれない。罪を犯したという完全な証拠はないにせよ、被告もずいぶん苦しい。こう見えるかもしれない。ところが、現在の裁判では、そうではない。必ず、原告(検事)の負け。被告の勝ち。無罪。
 これ以外の判決はない。けっして、あり得ない。すなわち、近代科学的認識と同じように考えるのである。現実は無限に複雑であるが、科学的模型は、その中から一部を抽き出して抽象し、他を捨てて捨象する。抽くか捨てるか、その境界をズバリと一義的に明確にするのである。
 近代的裁判もこれと同じ。現実は無限に複雑である。ゆえに、紛争の両当事者のそれぞれの「正しさ」に関し、無限のバリエーションがあり得る、と考えたほうがよいのかもしれない。
 しかし、近代裁判に、そのような判決はない。だからこれは、科学的理論におけるのと同様、現実の単純化に基づく一つの模型なのである。このような「白黒をつける」、勝ちと負けの二つに一つしかないのである。(小室直樹、『田中角栄の遺言』)


同書で小室氏が指摘する樣にデモクラシー裁判の論理は日本人の感性には合ひません。これの意味する所は何か?デモクラシーの論理が通じない日本社會はデモクラシー社會ではないと言ふ事です。「ここは日本だ。アメリカではない。」と言ふ人もゐるでせう。さう主張するのは自由ですが、では日本がデモクラシー國家ではない事も認めますか?

民主主義を名乘る事や選擧をやってる事はデモクラシー國家の充分條件ではありません。北朝鮮の正式名稱が朝鮮民主主義人民共和國である事を思ひ出して下さい。

そもそも一般に民主主義と呼ばれる仕組みは自由民主主義です。個人の自由(人權)を守る爲に民主と言ふ手段を採ってゐるに過ぎません。これは憲法學の教科書に必ず書かれてます。にも拘はらずそれが單なる知識レベルに留まり實踐されてないのが日本です。

個人の自由を守る爲にどれだけの犧牲・代償(cost)を拂はなければならないか。それをタダだと勘違ひしてるのが日本です。小室氏が何故Henry Denkerの『復讐法廷』(原題はOutrage)を引用したのか?この作品の主題が正にそこにあるからです。デモクラシー裁判の内包する矛盾と苦惱。民主主義の權化とも言ふべきアメリカ人ですら納得できない所があるわけです。

結果的に飯塚被告人は上訴せず判決を受け入れたので私個人は「 自己の過失を認識しながら無罪を主張してゐた」のだと解釋せざるを得ません。が、結果がだうあれデモクラシーの論理から見てこの裁判はデモクラシー國家に於ける裁判と言へるのでせうか?裁判所は本當に「鵜の目鷹の目で檢事を裁いた」のでせうか?

文字數制限が無いので私見を書きましたが、この記事を讀まれた方は『田中角栄の遺言』を讀んだ上でじっくりと考へてみる事をお奨めします。日本は本當にデモクラシー國家であるのか?と。そして「郷に入りては郷に從へ」と言ふなら日本は世界のルールに從ふのが當然ではないのか?と。


多忙の爲遲くなりましたがMasaGoto氏の要望によりここに再アップします。

(28/09/2681)